山梨のワイン沿革史

山梨のワインの沿革史

山梨のブドウ、そしてワインは甲州種を起源とする。江戸時代以前はこの甲州種だけがわが国で栽培されていたようである。とりわけ四季の変化に富んだ山梨県の風土は、ブドウ栽培に適している土壌、気象環境である。
中でも勝沼地域を中心に国内唯一の在来種である甲州種の栽培最適地として、極限的な自然的条件を備えており、木目細やかな、より芳醇で美麗な果実が実り、この果実からのワインは、本県の風土と人々の心とが一体化したいわば‘歓喜の真髄’とも言える。
甲州種はヨーロッパ系(Vitis vinifera)の東洋群(Proles orientalis)に属する品種であるが、その由来には勝沼町の柏尾山大善寺を開山した行基導入説と上岩崎の住人・雨宮勘解由伝説とがあり、勝沼ならではの語りとして息づいているが、いずれにせよ両説を踏まえて1280余年~810余年の長き歴史を有している(最近DNA鑑定の結果、甲州種は欧州系品種の遺伝形質を受け継ぎ、ヨーロッパからシルクロードを経由して、中国、日本へと渡ってきたという説に矛盾が無い事を示唆してきている(後藤奈美氏講演およびNRIB, No 27:2015))。

大善寺 薬師堂

甲州種の栽培の歴史上で棚架の創意とその技術の普及が画期的なものである。甲州種は旺盛な樹勢を呈し、その上雨が多い日本では株仕立てや垣根仕立てでは具合が悪かった。
本種のこの特徴を生かし、漢方医の徳本(戦国末期から江戸初期:徳本について不明な点が多い)が竹による棚架作りを工夫し、勝沼の村人に伝授したと言われる。竹棚によるブドウ栽培は明治初期まで続き、明治12年に上岩崎の雨宮作左衛門が竹を細い鉄棒に替えることを思いつき実行した。
さらに明治31年に勝沼郵便局長の若尾勘五郎が電信線の配架をヒントに鉄線棚を造り、現在の支線と支線を張り重圧に耐える鉄線棚の基を創始した。

甲州種ブドウ

元号が「明治」と改まって文明開化の夜明けを迎えた。廃藩置県で山峡の甲斐国が甲府県に変わりまもなく「山梨県」に改名。
慌ただしく激動する世相の中で、明治政府は「富国強兵」と「殖産興業」の施策を打ち出した。‘これからは新規事業だ。欧米並みの企業を興さねば…’と全国に先駆けて西洋の酒作りに着手した三県人がいた。
一人は明治7年「三ツ鱗」印のビールを醸造して全国に売り出した甲府柳町の野口昌章。同じ頃、甲府広庭町の山田宥教と八日町の詫間憲久が共同で葡萄酒の醸造を始めた。山田宥教は広庭町の真言密教の大応院の法印。日本で初めての葡萄酒共同醸造場は大法院の境内に建てた。境内の土蔵を改装して醸造場にしたと考えられる。
山田と詫間が全財産を投げ出して、甲州種やヤマブドウを原料に葡萄酒の醸造を始めたのは明治3年秋頃ではなかったか、後年の陳情書が醸造開始に年数を裏付けている。しかし、共同醸造場の規模、施設についての資料は残されていないし、山田がどういう経過を経て葡萄酒醸造の技術を身につけたのか定かではない。明治9年7月、二人は当時の藤村紫朗県令に「葡萄酒醸ニ付御願」を提出し、この陳情書を平たく訳す‘これまで私どもは、国産の葡萄酒醸造に従事、苦心の研究を続けてきた。もとより無識の憶測にして、とうてい優れた製品を造ることが出来ずにいる。 このままでは数年積み上げた醸造産業も水泡に帰してしまうだろう。技術の未熟さを打開し、本県の産業に発展させるには県の適切な技術指導と醸造用のブドウ苗の導入を促進することが急務である’として多項目を申し入れている。
この陳情書から見ても山田、詫間は明治3、4年頃から葡萄酒醸造に着手したのではないか。二人の陳情書は藤村県令を通して大久保利通内務卿に上申され、同9年7月から1年間据え置き、以後3カ年々賦の無利息で1千円貸し渡すことに決定した。しかし、山梨県勧業第1回年報によると、二人の共同醸造場は同9年10月「廃休スルノ不幸ニ陥ッタ」と記述している。
二人の醸造した葡萄酒について、藤村県令の手足となって殖産興業を推進した国立第十銀行の創始者である栗原信近の招聘で来県した津田 仙(津田式農業創始者)が、山田、詫間の醸造場を訪れ、その時も模様を同10年3月の津田仙発行の「農業雑誌」(29号)に次のよう記している。「予は甲府に至り山田、詫間氏の居寓を訪いたるに諸氏はその近傍に培養したる葡萄、野生の葡萄より醸造したる葡萄酒をもって予を饗待せり。予はまず諸氏のこの葡萄酒を製したるの労を賛美し、併せてこの種の葡萄にては通常の飲料は製することを得るといえども、以て佳良の葡萄酒を醸造すること能わざることを証せり。また諸氏は、この葡萄の実皮を蒸留して焼酎を製したり。もし諸氏のなお精製することを勉めなば、果たしてすこぶる佳良の飲料を製することを得べき也」と。
明治新政府は富国強兵と殖産興業施策を押し出し、藤村県令は新しい時代の殖産興業の柱に桑、茶、ブドウなどを据え、ブドウ殖産とワイン産業興立に意気込んだ。明治7年には府県別物産表によると、その年の県内産の白ワインで約900L、赤ワインで約1,800Lの生産量の記録があり、これは山田、詫間の共同醸造による日本で最初のワイン生産の数量ではなかったか。そして、横浜方面に出荷したと言われる。
明治8年酒類税則施行。同年西洋ブドウ(米国種)の導入。明治9年6月、甲府の舞鶴城跡に山梨県立勧業試験場を建設、これに併せて同10年3月、山梨県立葡萄酒醸造場完成、同年8月藤村県令の肝いりで法人組織「大日本山梨葡萄酒会社」(通称、祝村葡萄酒会社)創設、甲府の山田、詫間が年に720mL瓶10,000本を生産し「廃休スルノ不幸ニ陥入リ」(山梨県勧業第1回年報)と公示されて1年後の創立であった。
同8月第1回国内勧業博覧会が開催され、ブドウ、ワイン、ブランデ等が山梨県から出品、同年10月大日本山梨葡萄酒会社の高野正誠と土屋龍憲がブドウ栽培とワイン醸造の勉学のためフランスに渡る。
明治12年高野・土屋帰国し2,700Lのワインを醸造する。大日本山梨葡萄酒会社欧州系ブドウの苗木の移植に失敗。明治13年大日本山梨葡萄酒会社は醸造用として米国系ブドウを導入する。同年10月酒類税則施行(造石税などを増税、ワインは免許税のみ)。

高野正誠と土屋龍憲

明治14年福羽逸人「甲州葡萄栽培法」を発刊し、ワイン史の先駆けとなる。福羽は明治11年秋、農学者の津田仙の紹介で甲州入りし、上岩崎の雨宮家に立ち寄り「勘解由説」「甲斐の徳本棚かけ法伝授の由来」聴き書きし、柏尾の大善寺に寄って 「行基伝説」を取材、東山梨郡役所、県庁などに立ち寄って、藤村県令らに会って甲州種の変遷を取材している。帰郷してから、日川渓谷を挟む盆地特有の厳しい風土に耐え、日本独自の風味と甘味を湛える甲州種の群落を目の当たりに見て、感動に胸を膨らませて書き綴ったものと思われる。
明治15年3月祝村の雨宮伝兵衛ら野州葡萄園会社を設立、山梨のブドウ栽培180haとなる。同年フィロキセラが付着したブドウ苗木が日本に輸入される。明治16年山梨県立葡萄酒醸造場閉鎖される。
明治18年相興村に甲州園葡萄酒醸造場を創設。
明治19年1月大日本葡萄酒会社不振で閉鎖するが、3月土屋、宮崎光太郎らが買い取り祝村葡萄酒会社として再開。
明治20年川上善兵衛、祝村葡萄酒会社を訪れブドウ栽培とワイン醸造を学ぶ。 明治22年2月帝国憲法発布。明治23年宮崎独立して「甲斐産葡萄酒会社」を設立。同年川上善兵衛「岩の原ブドウ園」の造成に着手。同年10月高野正誠「葡萄三説」発刊。 明治25 年宮崎「大黒葡萄酒㈱」を創立。同年川上、岩の原ブドウ園でキャンベルを醸造する。同年7月酒精営業税法施行。
明治27年8月日清戦争始まる。
明治29年酒造税法、混成酒税法、自家用酒税法施行され、これにより模造ワインの製造は制限を受ける。
明治32年2月鳥井信次郎、大阪市に「鳥井商店」を開き「向獅子印」のワインを売り出す。
石灰ボルドー液のブドウへの導入
明治32年6月山梨県葡萄組合は農商務省の技師を招聘し、石灰ボルドー液による白渋病(うどん粉病)の防除指導を受けた。うどん粉病の発生は欧州系ブドウ苗の配布された明治10年代からで、この苗木と一緒にフィロキセラ、べと病、うどん粉病、晩腐病、黒とう病などが国内に上陸した。県内ブドウ園におけるうどん粉病の発生は明治20 年頃からで、甲州種の栽培面積を著しく減反させた。
石灰・硫酸銅の混合殺菌剤である石灰ボルドー液はフランスのボルドー地方で開発され(1850年)、米(カリフォルニア州、1886年)のブドウ畑でその効果が確認された。 明治30年(1897年)松村農博がアメリカから本剤を輸入して国の試験場で研究したのが始まりだと言われ、その2年後に石灰ボルドー液を本県に導入した。
明治33年3月酒精含有飲料法の改正、初めて葡萄酒が登場する。
明治37年2月日露戦争が始まる。同年5月小山新助が登美村の共有地を買収しブドウ園の造成に着手。同年10月上岩崎の川崎善次郎がワインの生産を始める。
明治38年7月堀内重左衛門が下塩後でワイン醸造を始める。
明治39年3月各府県でホルマリンやサリチル酸含有の不良ワインを摘発。同年9月鳥井商店を「寿屋」と改める。

散布したボルドー液

ブドウネアブラムシ(フィロキセラ)の確認
本害虫はブドウの根部に寄生して樹勢を著しく低下させて大被害を与える。本県では明治40年頃から被害が見え始め同43年に確認した。明治初期に米国系ブドウが導入され、また、この頃殖産興業政策に乗って国内(東京、愛知、岡山、愛知、兵庫など)の農園には山梨のワインを越えようと、フランス産ブドウの苗が増殖・配布され栽培されてきた。当時(1868年頃~)、本場のボルドーやブルゴーニュではフィロキセラにより約30年間で壊滅的な被害を受けており、フランス産由来の苗を植え付けたこれら各県のブドウも明治15年から18年の間にフィロキセラにより絶滅した。幸い山梨県はフィロキセラの発生が遅れた。
明治45年(大正元年)5月登美農園完成する。大正2年猛威を振るうフィロキセラ撲滅のため免疫台木試験始まり、同3年にフィロキセラ免疫性台木のイブリ・フランなど7品種を米国より輸入し全国主産地に配付する。同年7月第1次世界大戦勃発する。
大正7年全国各地で米騒動起こる。
大正9年7月酒造税法改正により増税となる。
大正12年9月関東大震災が起こる。
大正15年(昭和元年)10月ブドウに付着するボルドー液の銅が残留問題になる。
昭和4年不景気によりワインの売れ行きが著しく低下し、一部で醸造量を調整する。
同年10月世界大恐慌、倒産企業が続出。
昭和5年9月サドヤ醸造場本格的にワイン醸造に着手する。この年豊作であったが、価格が暴落し「豊作飢饉」と言われた。また、この年県内のワイン醸造場は1,088場に増加する。同年10月山梨県醸造研究所が開設され、ワインの研究、指導に本格的に着手する。
葡萄酒品評会が始まる
昭和7年6月山梨県商工課主催で第1回葡萄酒品評会が山梨県醸造研究所で開催された。戦前における初めての葡萄酒品評会で、第8回(昭和16年7月)まで続いた。第3回葡萄酒品評会(昭和11年7月)には白ぶどう酒93点、赤ぶどう酒7点、ぶどう液1点の出品で、白系の甲州種とデラウエアを原料としたぶどう酒が多数を占めた。審査長に由里篤義技師、審査員に鳥井信次郎社長(寿屋醸造)、今井精三(サドや醸造)川崎善治郎(勝沼・祝勝産醸造)中村千代松(東山農会技手)が当たり、「色」「香り」「味」について試飲し、白ぶどう酒の特選9点、入選44点、赤ぶどう酒の特選1点、入選1点を選んでいる。
昭和9年全国ワイン生産量は2,450klで、うち山梨県は1,390klであった。同年5月県商工課技手中村千代松は「自家用葡萄酒醸造法」を甲州葡萄酒出荷組合から発行。 昭和10年6月「山梨県葡萄酒改良協会」が発足。この年日本酒造組合連合会は葡萄酒に課税を請願。これに対し生葡萄酒課税反対同盟を結成して課税反対を決議。昭和11年登美葡萄酒が寿屋醸造山梨工場となる。昭和12年4月アルコール専売法が施行。同年7月日華事変が勃発。
昭和13年3月日華事変特別税法が成立しワインにも物品税が180L当たり10円かかる。また同年7月公定価格制度、価格表示制度など価格統制が始まる。
昭和14年山梨県のワイン醸造場数は3,694場となり史上最高に達する。同年9月ドイツ軍ポーランドに侵攻し第2次世界大戦始まる。
昭和15年4月酒造税法が廃止になり「酒税法」の施行。アルコール分1%以上は酒類となり、自家醸造も製品の醸造と同じ規制を受けるようになる。酒税は庫出し税となり大幅に増税される。同年8月政府は酒税確保とその能率化のために「葡萄酒醸造組合」の設立を推進する。山梨県は最終的に147組合になる。同年5月山梨県農業試験場園芸分場にワイン醸造用品種選抜圃場を設置する。
昭和16年7月酒類卸業者及び販売業者間で酒類統制配給会社が各府県に設立される。同年12月太平洋戦争勃発する。
昭和17年5月ロッシェル塩(酒石酸カリソーダ)の採取が急務となる。同年7月ワイン醸造場の統合が推進され、県内では地域的にまとまりこの年266場の協同醸造場となる(醸造量の最小単位が18kl)。
昭和18年1月サドヤ醸造場に酒石酸カリをロッシェル塩に精製することを依頼。同年5月全国のワイン醸造場は酒石酸カリの採取を行いサドヤ醸造場に集荷する。同年12月日本連続抽出㈱が下岩崎で創業し酒石酸カリの生産工場となる。県内の醸造場の統合がさらに進み143場となり、また全国のブドウ生産地に酒石酸カリ採取を目的としたワイン醸造場が造られる。同年12月山梨県葡萄酒共販組合が設立され、ワインも公定価格で買い上げられる配給ルートにのり品質低下が著しくなる。
昭和19年4月酒税法改正、酒税が庫出し税1本となる。一方ワインの醸造が奨励されたため、成製量は149醸造場で11,566klを記録した。 昭和20年8月太平洋戦争終結。同年12月日清製油が日本連続抽出㈱を買収し山梨工場としてワイン等の製造を始める。
昭和21年4月理研葡萄酒(甲府市)が日本葡萄酒㈱に改称する。この年は酸っぱいワインが全国に出回り不評を買う。同年11月日本国憲法発布。 昭和22年4月独占禁止法が成立。同年4月山梨工専(後の山梨大学)で醗酵化学の講座が始まる。この年メチルアルコール入りワインが出回り悪評を買う。またワインの密造の取締りが強化される。
昭和23年10月塩後葡萄酒共同醸造場(塩山市)を解消、富士発酵工業㈱を創設。同年7月酒税局長通達により果実酒へアルコール添加認められる。 昭和24年4月学制改革が行われ、山梨工専は山梨大学に改称。同年4月GHQ、日本円に対する覚え書き所により1ドルは360円の単一為替レートとなる。同年4月大村忠雄氏所有(勝沼町藤井)の葡萄酒会社が法人化し丸藤葡萄酒工業㈱として再発足する。同年5月酒税法改正、焼酎に甲種、乙種ができる。同年7月酒類配給公団の廃止、酒類が自由取引となる。同年7月日清製油山梨工場が日清醸造㈱と改称。
酸敗ワインの一掃
昭和24年11月山梨県経済部、国税庁、税務署、山梨県醸造研究所、山梨大学が一体となって、酸敗ワイン一掃のため県内にある204の醸造場の一斉立ち入り検査を行う。在庫量932Klのうち酸敗酒は358Klで実に38.4%にのぼり、32Klを廃棄し他は用途を代えた(昭和25年も続ける)。
昭和25年山梨税務署はワインの密造が相次いで摘発。同年6月朝鮮動乱が勃発。同年12月酒税の減税を実施。
昭和26年7月日東工業㈱が福泉醸造山梨工場を買収し、太平醸造㈱となる。同年9月サンフランシスコ講和会議で49カ国対日平和条約に調印、また、日米安保条約の調印。同年9月醸造用砂糖が増配され、ワインの品質が向上する。この年、全国のワイン醸造が第二次世界大戦以前の状態に戻り、製造量が6,191Kl、うち山梨県は1,771Klで28.6%を占めた。
昭和28年3月酒税法、酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律の施行。同年3月中央葡萄酒(株)(勝沼町等々力)創立。同年4月山梨大学工学部に応用微生物学講座が開設される。
昭和29年4月勝沼町、祝村、東雲村、菱山村、大和村の深沢が合併し、勝沼ブドウ郷を形成。

現在の勝沼ブドウ郷(菱山エリア)

昭和22年4月に制定された「独占禁止法」よる民間団体のカルテルの禁止や「閉鎖機関令」によって酒類業団体は閉鎖機関となった。さらに昭和23年の「事業者団体法」により「酒類業組合法」が廃止され、また同年5月酒税法改正、焼酎に甲種、乙種を導入。同年7月酒類配給公団が廃止され、酒類が自由取引となる。したがって昭和23年7月をもって果実酒の統制が解かれたため、ワイン業界は日本果実酒協会を組織し、困難な戦後経済の中、諸法律の改廃に対処することになる。
その後国内経済の急速な発展に伴って果実の生産量が増加し、配給統制も漸次緩和されて果実の自由販売が許された。ブドウの主産地となり、ワインの生産県でもある山梨県内では甲府税務署、韮崎税務署、鰍沢税務署管内に任意組合として山梨県西部果実酒協会、山梨税務署、大月税務署管内に山梨県東部果実酒協会を設立し、この東西果実酒協会の傘下として山梨県果実酒協会連合会を発足させた。この連合会によって協会の運営を行い、法定組合の設立のための基礎を作ってきた。
他の酒類業界は酒類別・業態別に「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律」に基づく法定組合の設立が完了していたため、未組織の組合は果実酒業界のみとなっていた。そこで、山梨県東部果実酒協会、同西部果実酒協会並びに山梨県果実酒協会連合会を解散して、関係官庁の指導により、昭和30年に山梨県一円を区域とする法定組合として「山梨県果実酒酒造組合」を結成する運びとなった。
酒類業組合特別地区承認申請書・承認書
昭和30年1月14日付で山梨県果実酒酒造組合設立発起人代表・大島利元氏より、「酒類業組合特別地区承認申請書」を東京国税局長宛に提出した。酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律施行規則第2条による申請書を提出した。
この申請に基づき昭和30年1月26日付で酒類業組合特別地区として東京国税局長より承認された。
定款の制定と果実酒酒造組合設立認可通知書
酒類業組合特別地区承認書により昭和30年2月23日に山梨県果実酒酒造組合・創立総会を開催し、定款の決定等必要な議案を議了した。
1. 定款の制定
東京国税局長宛に「酒類業組合設立認可申請書」を提出するに当たり、昭和30年2月23日の創立総会で定款を制定した(ここに示した定款は昭和35年に改正したものである)。
2. 果実酒酒造組合設立認可通知書
創立総会の決議を踏まえて、昭和30年3月15日付で「酒類業組合設立認可申請書」を東京国税局長宛に提出した。この申請書には酒類の保全及び酒類業等に関する法律第19条第1項の規定により、定款、役員の氏名等、組合員名簿、初年度の収支見積書、創立総会における議事録の謄本等の書類を添付して申請した。  かくして昭和30年4月4日付けで酒類の保全及び酒類業組合等に関する法律第19条2項の規定に基づき、山梨県果実酒酒造組合の設立が認可された。

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